■朝方の独り言


私の近くにある花は不器用で高価な花よりも見劣りするかも知れない。
しかし、街に咲く多くの花よりもナチュラルでそして生きる事に必死である。
中には「雑草」程度に感じて踏みつぶそうとするものもいる。
しかしこの花は踏まれない様、いや踏まれたとしても枯れることの無いように必死で生きている。
そしてこの「賢明さ」をアピールするという技法を使用せず、
自分の生命力と戦っている。


余談であるが、私なりの芸術の定義。
自分にとって「芸術」は作品を差すものでは無く、
職種を問わず「人間の人生」そのものが芸術。
どのように生涯を過ごしたか?その断片全てが芸術品。
よって生きてる間にゴールは無し。
アーティストと対極にある存在「職人」とて、
その道を必死で生き抜き生涯を閉じたとするならば、
私の「愛する芸術家リスト」に加わる事だろう。
この概念でいうならば私が自ら「自分をアーティスト」と考える
事は永遠に無い。
私以外の誰かが決めることである。
そして自分がこのリストに掲載されようがされまいが気にならない。
少なくとも生きている間は自分に正直であり、
ヘビースモーカーという悪習から早くも折り返し地点にあるであろうこの人生をまっとうするだけである。


人生において苦悶する姿もまた美。
乗り切った瞬間はさらなる美。
そして人が成長してゆく過程、私はそれを「総合的な美」と考えている。


そして私という人間は「美味しいイタリアンの店」看板に魅了されるタイプでは無い。
真心のこもった家庭料理のほうががよほど好きだからである。
そして流行だろうが時代遅れだろうが私は自分の感覚に対して
「自然」でいられることを望む。
そして自分と異なる感覚にも愛情を注ぐ。
このバランスが驚異的に保たれた時に新たな角度から事柄を
見る「視点」を得ることができる。
バンドでいうならばローリングストーンズが分かりやすいであろう。
彼等が奇跡のバンドと称されるのはサウンドではない。
この絶妙なバランス感が奇跡なのである。
異なる感性、感覚の融合。
これが音楽としても素晴らしいのである。
同じ方向を向いた人々が集うのはサークルであり、
乱暴にいえば傷の嘗め合いと同軸である。
よって「音楽性の違いにより解散」という言葉は一見美しくもあるが、その実、異なるのではないだろうかと私は思う。


朝方というのは言葉が多くなるな。
大抵こういう文面は目覚めて見直すと愚かな内容だったりするのだが、
こんな一瞬の断片もきっと私そのものなのだろう。
読み流してくれれば幸。


話はさらに逸れるが私は10代後半の頃から哲学書
いわれるものに傾倒した事がある。
別にインテリジャンスな訳でもなんでもない。
たまたま感銘した言葉があったからである。
ある意味では素晴らしい音楽との出逢いとも似た出来事だった。
「哲学」とは著者に多角的な視点があることを根底に必要とされる訳だが、
それら書物には多角的視点から得られた真理と多くの有益な言葉も溢れている。
多くの作詞家が影響を受けていたりもする作家もいるので
音楽の楽しみ方の比重に「詞の世界」が強い人は読んでみるのも
悪く無いかも。


下記のページにはそれら書物から有益な言葉が抜粋されていた。
笑いあり涙ありである。言葉のマジックである。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3516/




2001/09/18(Tue)